The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

長谷川豊氏の炎上記事は、事実認識や言い方だけでなく“論理展開”も変なのでは?

炎上して当然

 長谷川豊氏が人工透析患者を罵った例の炎上記事は、

  • 人工透析患者の大半が「自業自得」であると断定したこと
  • だから扶助は必要なく自己負担で治療せよと「自己責任論」を振りかざしたこと
  • それができないなら「殺せ」と不穏当な言葉で病人を罵ったこと


 などが多くの人の癇に障り、騒ぎになりました。それで長谷川氏は、
 「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」
 というタイトルを
 「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」
 に変更したりしたみたいですが、結局テレビ番組を降板させられるまでに至った(記事リンク)そうですね。


 1つ目の「自業自得」論については、長谷川氏がいうほど「自業自得」な患者の割合は多くないのではないかという反論があり(記事リンク)、2つ目の自己責任論については「そうは言ってもやはり病人は助けにゃならんのだよ」という反論があり(記事リンク)、3つ目の「殺せ」については長谷川氏の人間性に大きな問題があるとして多くの人が憤ったわけです。
 ついでに、長谷川氏のブログ記事には、人工透析患者のブログからの無断コピペがあったことが指摘され(記事リンク)、長谷川氏は

「このブログは炎上することが分かっているので、僕に協力していると捉えられたら、当然相手にも攻撃が絶対行く。そのため使わせていただくことを断りたく連絡したのですが、連絡がつかなかった。連絡がつかないのに名前を勝手に引用して迷惑をかけてもしょうがないし、本記の中でそれほど大事なところでもなかったので、いわゆる部分引用に。単なるコピー&ペーストではなく、改行をしたりして『自分の著作物』という形にした」
 
(3/4) 長谷川豊氏、「人工透析」ブログの「真意」語る 全腎協の謝罪要求は「断固拒否」 : J-CASTニュース

という果てしなく意味不明な言い訳をしておりました。


 まぁ恐らく大半の人は、3つ目の「言い方」や「人間性」の問題を重く見て、「こんなひどい奴は人前に出てこないで欲しい」と思って叩いていたんでしょう。テレビ番組で共演者から「言い方言い方!」と注意されたらしいし(記事リンク)、長谷川氏本人は「拡散してもらいたくて『殺せ』と書いたが、これはミスだった」と言い訳しているし(記事リンク)、「興味を引くためなら何でも言って良いわけないだろ」という冷静なツッコミもあって(記事リンク)、全体としては「言い方がひどい」という問題になっているわけです。テレビ大阪による降板理由も「行きすぎた表現があり、多くの人に著しく不快感を与えた」ですしね(記事リンク)。
 「殺せ」とかいう言い方がひどいのはもちろんだし、炎上してもなかなかそれを取り消さなかったところをみると、以前紹介した「良心を持たない人々」(以前のエントリ)の趣があり、人間性に疑いが持たれて炎上するのは当然でしょう。
 
 

人間性の問題は措いておいて・・・

 しかし「長谷川豊はひでぇ奴だ」という人間性に関する批判は飽きるほど出ているので、ここでは長谷川氏が言ってることの論理構成上の問題を検討しておこうと思います。
 改めてまとめると、長谷川氏が言ってるのは、


① ほとんどの人工透析患者は「不摂生」が原因となって重病を患うに至っている。
② だから、人工透析を受けているのは「自業自得」である。
③ だから、保険料なんか充ててやらずに「自己責任」で治療させるべきである。


 ということです。
 ①の事実認識がそもそも間違ってるのではないかとの指摘もあったわけですが、仮にこれが正しかったとして、①⇒②や②⇒③の流れは必然的に成り立つのでしょうか?
 恐らく「成り立つ」と考える人が多いのではないかと思います。だからこそ批判の大半が、「殺せ」という言動の不穏当さや、①の事実認識についての指摘に集中していたんじゃないでしょうか。しかしここでは、これらの論理展開が成り立たないかもしれないということを考えてみたいと思います。

「自業自得」であることを示すのは意外に難しい

 長谷川氏は例のブログ記事の注釈で、

※注:本コラムは記事内にもありますように「先天的な遺伝的理由」で人工透析をしている患者さんを罵倒するものでは全くありません。誤解無きようにお願い申し上げます。

 と言っています。長谷川理論では、遺伝が関係していれば「罵倒」の対象から外してもらえるらしいです。
 一見、これ自体は真っ当なことを言っているように思えますが、「遺伝ならOK」という基準はじつはあまり筋が良いとは言えず、強力な論理を築けません。


 たとえばfujiponさんは、遺伝病を発症するような直接的な影響の他にも、遺伝の間接的な影響があることを指摘しています。どういうことかというと、「糖尿病のなりやすさ」に関して遺伝的(先天的)に差異があるので、同じ程度に摂生(不摂生)していても、病気を防ぐ(促す)効果があったりなかったりするというわけです(記事リンク)。
 糖尿病に比較的なりやすい体質であるという意味では先天的だが、一応、完璧な摂生をすれば糖尿病の発症が防げるという意味では後天的な努力にもよるというケースがあるということです。これは、長谷川理論ではどう扱われるのでしょうか。「この人は25%ぐらいが遺伝のせいで、あとの75%が本人の努力だから、25%は保険で賄ってあげるよ」とか長谷川氏が判断してくれるのでしょうか。


 また、上記のfujiponさんの話を読んでて思ったのですが、別環境で育った一卵性双生児についての研究例がよく取り上げられるように、「性格」についてもけっこう遺伝によって生得的に決まる部分があるということがどんどん明らかになっているわけですよね。このことを考えると、さらに「自業自得」論を主張するのが難しくなります。
 性格が生得的にある程度決まっているということは、例えば「摂生の努力ができるタイプかどうか」も最初から決まっているのかも知れず、だとすれば「自業自得」と言われたって自分ではどうしようもないのだという話になります(笑)
 自分に原因があるのは確かですが、その原因は先天的に与えられた性格なので、それを責めるのであれば、遺伝的に身体が弱い人についても「自業自得だ」として非難しなければならなくなります。


 性格や知能が遺伝の影響を受けるという説は「差別を助長する」として、その研究自体が暴力的に妨害されてきた歴史があり、心は「空白の石版」であると考える人も多いようですが、最近は心の中身も生得的にある程度決まっているという証拠がたくさん集まってきているようです(参考文献)。
 また、「生まれか育ちか」論争とも呼ばれるように、性格や人格が「遺伝的にかなり決まる」という説に対抗するのは、「環境によって決まる」という説です。しかしそっちの説を取ったところで、環境により影響されるというのであれば、それもやはり「本人のせい」ではないということになります。


 性格遺伝説を持ち出すとけっこう屁理屈度が高い話になってしまい、半分冗談のようにも聞こえるでしょうし、私も自分の責任逃れの言い訳に使おうとは思いません(笑)
 しかし実際問題として、遺伝の影響は次々に明らかにされているし、環境の影響があることを疑う人はいないので、これらを考慮に入れると「自業自得」論を主張するのは簡単ではなくなります。「遺伝的に決まっている性格」と「環境の影響で形成された性格」を除いたら何が残るのかと冷静に考えてみると、案外「お前が悪い!」と非難したくなるようなありありとした主体は残っていないと言えるのです。
 「遺伝の影響がどの程度か」「環境の影響がどの程度か」は個別に議論されるとして、少なくとも「遺伝ならOK」というような単純な基準は、長谷川氏が「罵倒」すべき対象を選別する上では機能しないことはわかります。
 これは、実はけっこう哲学的にも難しいテーマだと思います。「自分のせい」っていうときの「自分」ってどこからどこまでを指すんですかね?そして、身体が弱いと助けてもらえるのに、心が弱いと罵られるのはなんでなんですかね?
 
 

「自己責任」論は合理的なのか

 次に、こっちのほうが本題ですが、不摂生はやはり本人のせいであり自業自得なのだと仮に理解できたとして、治療費を全部自己負担にさせるべきだという主張は導き出せるのでしょうか。
 規範的な議論においては、何を究極の目的に据えるかを慎重に考えないといけないですが、究極を考えるのは難しいのでひとまず「不摂生により人工透析に至る人の数を減らすこと」が目標だとします。その場合、議論すべきなのは間違いなく、「どうやったら人は摂生してくれるのか」です。
 すでに人工透析に至っている人は今さら摂生してくれてもどうにもならないかも知れませんが、長谷川氏も将来の話をしているので、明らかに「今はまだ元気な人に、いかに摂生させるか」が最大のテーマになるはずです。


 で、人々に摂生してもらうために何をすればいいのかと考えると、その手段は多様であり人にもよるので、単純な議論では済まないことが誰でも分かると思います。長谷川氏は「保険の対象外にしろ」としか言ってないのですが、であれば長谷川氏は少なくとも、それによって人々が摂生してくれるようになるのだということを論証なり実証なりする必要があります。
 行動経済学とか心理学で色々研究が蓄積されていると思いますが、自己負担の引き上げが摂生インセンティブとして効果を持つ場合はもちろんあるでしょう。しかし治療費を自己負担にしたところで、長谷川氏が例に挙げているモンスター患者みたいな素質をもった若者が、「年をとってから人工透析になると保険が適用されず医療費がかさむから、今日酒を呑むのをやめよう」と合理的に行動してくれるかというと怪しいですよね。あるいは逆に、あるブログ記事(リンク)に書かれてましたが、「人工透析になっても保険で賄われるから、ガンガン呑みまくろう」と考えてる人もべつにいないでしょう。
 不摂生による健康リスクは他にも色々あるわけだし、そもそも長期的なリスクに鈍感だからこそ不摂生をしてるわけですよね。ペナルティは重要なインセンティブですが、少なくとも酒を飲んだりするときにすぐ与えるとかでないと意味ないと思います。


 子どもに宿題をやらせる時なんかを考えると分かりますが、人から最大限のモチベーションを引き出そうと思ったら、「これをやらなかったらこんな罰がある」みたいなムチによる方法以外に、いろんな手段を駆使する必要があります。また、モチベーション(精神力)に頼るのではなく、環境をうまくデザインしてやれば嫌でも摂生せざるをえないような仕掛けを作れるかもしれません。
 今その具体論を議論したいのではありません。私がここで確認しておきたいのは、「不摂生を最小化するような制度や環境の設計」を我々は考えるべきであり、それは色々なものがあり得るはずなのに、長谷川氏の記事には不摂生抑制の手段をあれこれ比較検討した形跡がないということです。あの「全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」は、「不摂生を抑制する効果的な制度設計」として提案しているというより、単に「嫌いな奴らへの報復」を叫んでいるだけのように見えます。
 ここが、長谷川氏の議論で一番変なところだと私は思います。
 
 

まとめ

 以上見てきたように、人に責任があるかどうかというのは一筋縄でいくテーマではなく、「自業自得」を主張するのは案外難しいです。私はべつに、「自己責任」という概念や、それを重視する感情を捨て去るべきだと思っているわけではないし、「責任」の観念が法律を始めとする社会のルールの根底に流れているのは事実であると思います。しかし、よく考えもせずに声高に叫ぶべきものでもないと考えます。責任とはなんぞやとか、それを負う主体とはなんぞやみたいな哲学的な考察を経ないと、「自業自得」が何を意味するかも実はよくわからないのです。
 だから、哲学的な思索になど関心がない多くの人々(長谷川氏を含む)が議論すべきなのは、よく説明できもしない不摂生の「責任」とやらを追及することではなく、「どのように制度や環境をデザインすれば自分や他人が摂生できるか」だと思います。そしてそれは、少し考えれば、「自己負担にしろ!」と叫んでいれば済むようなものではないことが分かるはずです。


 長谷川氏の炎上記事は、「殺せ」などの不穏当な物言いに問題があったことは間違いないし、事実認識も誤っていたのかもしれませんが、それに加えて「不摂生抑制の手段の検討」になっていないことによって、単なる罵倒としか理解できない代物になっています。長谷川氏は後続のエントリで、「ほらこんなにも自業自得な患者がいるんだよ」と追加情報を示してますが(記事リンク)、それは意味がないんですよね。不摂生抑制の手段を多面的に検討せず不摂生の例示ばかりするということは、要するにその人たちを罵りたいだけなんでしょってことです。


 私は基本的に「叩かれている側」を応援したくなる性格なのですが、今回の件で長谷川氏を応援したいという気持ちには全くなりませんでした。で、「人間的にひどい」みたいなことは当たり前すぎて書く気になれなかったのですが、理屈の流れは一応確認しておきたかったので、整理のためにエントリを起こしました。