The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

「集団的自衛権の行使容認」問題についてのメモ

変な議論

 間違いもあったので記事を2回ぐらい全体的に書き直しました。


 集団的自衛権の行使容認の問題がめちゃめちゃ盛り上がっていて、新聞テレビはほとんど見ていないのでよく分からないが、会社の近くでも連日デモが行われているし、知り合いのFacebookとかでもにわかに政治的な記事が流れまくっている。
 私はそもそもあまり勉強してないので国際法憲法について詳しく知らないのだが、個人的には、集団的自衛権の行使を認めるか否かというのは、それ自体は安全保障上の課題全体のなかでは些末な論点なんじゃないかと思えてしまい、今の騒ぎは色々ピントがずれてて気持ち悪いと感じる。


 今回の閣議決定で認められる(と解釈される)ことになったのは、

我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使する
閣議決定より)


 ことである。従来は憲法解釈上、集団的自衛権については「保有はしてるけど行使はできない」ということになっていたが、行使できるということにしたわけである。
 これを受けて反対派が大騒ぎしているのだが、その理由は大きく、


 ① 日本の自衛と関係のない海外の(アメリカの)戦争に巻き込まれるからダメ
 ② 意思決定のやり方が立憲主義に反しているからダメ
 ③ 集団的自衛権の行使は憲法違反だからダメ
 ④ とにかく現状より少しでも武力行使の可能性が広がるのはダメ


 という感じになっている。②と③は区別がつきにくいが、憲法改正の手続きを踏まずに閣議決定で解釈を変更して押し切るのは、やり方として強引だという論点(②)と、そもそもどう解釈したって違憲であるという論点(③)は、一応別物だと思われる。
 保守派(のうち、安倍晋三を称える人たち)が何を言っているのかはよく知らないし、関心もない。たぶん、さすが安倍さんとかいって喜んでるんだろう。彼らは、とにかく左翼が嫌がる政策は正しいという立場なので。


 さて上記の反対派の議論だが、いろいろ気持ち悪いところがある。
 ①については、あくまで今回認めることにしたのは日本の自存自衛に関わる場合の武力行使であって、自国の防衛上の必要性があるかどうかは、事案ごとに日本が主体的に判断すべきものだ。もちろん「恣意的な運用ガー」という危険性は当然あるのだが、それは議論の水準が異なるというべきだろう。
 ②については、確かに今回の手続きは強引である。とくに内閣法制局長官を外部から連れてきた賛成派にすげ替えて議論を避けるというやり方は、後々踏襲されたりするとヤバいと思われる。解釈変更の内容そのものは暴挙というほどのものではないと思うのだが、今回の決定は単に一内閣の解釈に過ぎず、政権が替わって別の解釈が示されたり、裁判所が別の解釈を示すこともあり得る。そんなあやふやなものに基づいて今後の法整備とかを進めようとしているのは危ないだろう。もう少し確実な根拠を得てからでないと、集団的自衛権なんて扱うべきではないのではないか
 ③については、集団的自衛権の行使が違憲であるかどうかの前に、そもそも戦力(自衛隊)を保持していることが9条2項に違反しているはずである。お前らどうせ反対派なんだからもっと根本から真面目に議論しろよって感じ。
 ④については、単なる感情的な反発なので、勝手に言ってろと。


 以下、とりとめのない内容だが、あれこれ思ったことをメモしておく。基本的に、現下の国際情勢を踏まえてとかではなく、あくまで理屈の問題として気になることをメモっておいた。
 で、考えれば考えるほど、集団的自衛権ごときでそんな大騒ぎすんなよって思ってしまうのだが、それは最後にまとめておく。

集団的自衛権って

 鈴木尊紘という人が書いた、集団的自衛権憲法9条の関係にかんする政府見解の変遷をレビューした論文(リンク)があって、集団的自衛権そのものに関する解説もいろいろ載っていて分かりやすい(歴史的経緯とかはWikipediaをみたほうが早い気もする)。


 まず集団的自衛権といっても概念としては幅があって、

集団的自衛権は、一国に対する武力攻撃が行われ ることによって、他の諸国も各自の個別的自衛権を共同して行使する、又は地域的安全保障に基づいて共通の危険に対処するための共同行動をとるか、いずれかの場合とする定義である(個 別的自衛権共同行使説)。

集団的自衛権は、自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を、自国に対する攻撃とみなし、自国の実体的権利が侵されたとして、他国を守るために防衛行動をとる権利であるとする考え方である(個別的自衛権合理的拡大説)。

集団的自衛権とは、他国の武力攻撃に対して、自国の実体的権利が侵されていなくとも平和及び安全に関する一般的利益や被攻撃国の国際法上の権利(領土保全・独立等)を守るために被攻撃国の自衛行動を支援する権利であるとする考え方である(他国防衛説)


 と3通りが存在し、① < ② < ③ の順で権利が広い。
 日本政府の立場は② らしい。集団的自衛権という概念自体に幅があるということは、当然、集団的自衛権をひとくくりにするのではなく、日本国憲法上認められるものと認められないものに区別すべきだという議論があってもおかしくないな。


 ちなみにその前段で「集団(的)安全保障」に関する説明がなされているのだが、これは「集団的自衛権」とは別の話であることを理解する必要がある。集団安全保障というのは要するに、「みんなで仲良くしましょう。ただし掟を破るやつがいた場合は、みんなで協力してつぶしましょう」という約束のことだ。

集団的安全保障とは、「国際社会、または、一定の国家集団において、それに属する諸国が互いに他の国に向かって不可侵を約束し、この約束に反して武力を行使する国に対しては、それ以外の国は協力して被害国を助け、加害国に対して経済的圧迫あるいは軍事行動の強制措置を加え、諸国の結集した力による威圧により戦争を防止・抑圧する制度」を意味する。


 国連というのはこの「集団(的)安全保障」のための枠組の一つなのだが、この枠組が機能するためには安保理による意思決定が必要だったりして即応性に欠けるから、この枠組が機能しない場合であっても各国は固有の権利として「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も持っている、という話である。


 で、国連憲章で認められている「自衛権」に該当しないような武力行使は、集団安保措置の場合を除けば、「侵略」であると考えてよい。ただ、この「自衛権に該当するかどうか」というのは常にやっかいな問題で、国際的にも一致した見解があるわけではないようである。
 日本政府が掲げている自衛権発動の3要件(このブログを参照)も、日本政府が独自に考えたものというよりは、国際的な議論の最大公約数的なところを取っているようだ。「国際法と先制的自衛」という資料(リンク)によると、イギリスのウェブスター国務長官という人が提案した「目前に差し迫った重大な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、 熟慮の時間もなかったことを示す必要があろう」という提案が先行例となっており、日本政府の見解もこれに似ている。で、その後の議論のなかで

  • 軍事的反撃が必要であるかどうか。 (必要性の原則)
  • その反撃は相手の攻撃とつりあっている かどうか。 (均衡性の原則)
  • その反撃が即座のものであるかどうか。 (即時性の原則)


 といった要件が国際法学者のあいだで提案されているらしい。ただこれも、広範な意見の一致をみているというよりは、まだまだ論争が必要という感じのようである。

「保有してるけど行使しない」というロジック自体はおかしくない

 ところで、日本政府の「集団的自衛権を保有はしているが行使できない」という解釈について、矛盾してるとかいう主張もあるみたいだが、べつに論理的におかしいわけではないと思う。
 単に、「国際法上の視点から見れば権利は有しているが、日本国憲法というローカルルールを定めることで、その権利は使わないことにしてる」というだけのことであって、論理的にはあり得る話だ。


 たとえば、たまたま仕事で関わった例を思い出したのだが、WTOの「政府調達に関する協定」というものがあって、各国の政府が物品やサービスを調達するときに、海外の業者であっても不利を受けることなく入札に参加できるよう、各国共通のルールを整備している。ところが、基本的にはWTOのルールに従ってればいいはずなのだが、日本政府は独自の「アクションプラン」を定めていて、WTOルールよりも厳しい基準で政府調達ルールを作っている。
 「権利」の話とは性質が違うが、条約が定めたルールよりもさらに厳しい基準でローカルルールを設けるということ自体は、普通に行われているということである。

外国の戦争に巻き込まれるのか

 ひとまず憲法論はわきにおいて、海外で武力行使することの是非について考えてみよう。
 日弁連のPDF資料(リンク)をみると、反対論のサマリーみたいになっているので分かりやすいのだが、大学教授や弁護士や元官僚の人たちが色々意味不明なことを言っている。
 まず最初のページからして、

集団的自衛権。それは、外国のために戦争をすること。


 と書いてあり、

集団的自衛権の行使は、日本の防衛とは関係なく自衛隊が海外で武力行使することです。
(略)
集団的自衛権行使容認の狙いは、海外の戦争に参加できる国に変えることにあります。海外における武力行使に道を開き、大国による戦争に日本が加担することになります。


 という人も出てくるのだが、スローガンとしても飛躍しすぎなんじゃないだろうか。
 たしかに集団的自衛権というのは、日本が攻撃されていなくても仲間の国が攻撃されているときには武力を行使するというものだが、「外国のために」「日本の防衛とは関係なく」ではなく、あくまで理屈としては「日本のため」のものである。


 反対派が「海外の戦争に巻き込まれる」と言っているのは、恐らく具体的にはアフガン攻撃やイラク戦争みたいなやつに日本が駆り出されることをイメージしているのだろう。日本周辺の公海で米艦が攻撃を受けた際の支援とか、アメリカに向かって飛んでいくミサイルを日本が代わりに撃ち落とすことに反対しているようには見えない。
 で、こういう批判はあまり意味がないというか、少なくとも安倍内閣が言っていることと議論が全くかみ合わないので、言っても無駄だろうと思えてしまう。
 今回の解釈変更で認めることにしたのは、さっきも触れたように、

我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使する


 ことである。つまり、理屈の上ではあくまで、日本の防衛に関係がある場合のみ集団的自衛権行使が可能という話なのだ。
 場所が海外だろうがアメリカの戦争だろうが、日本の防衛上必要なのだとすれば、戦った方が良いとしか言いようがない。もしそれが(イラク戦争のように)侵略戦争だったとすれば、それって憲法9条もクソもなく国際法違反なのだから、「それは侵略です」と反対すればよい。
 抽象的な「是非」の議論はそこで終了してしまうのであって、あとは個別の運用で判断を間違わないように仕組みをつくったりしなければならないというだけだ。


 もちろん、どんなに慎重にルールを整備したところで「恣意的な運用ガー」問題はあるのであって、日本の防衛にほぼ関係のない戦争に荷担するケースは出てくるかもしれない。しかしそれなら、そういう個別の事案について「それって日本の防衛と関係ないだろーが」と反対すればいいのであって、集団的自衛権の行使一般について反対するというのは理屈として無理がある。
 というか、安倍政権側に「いや、だから、日本の自衛に関係のない『外国の戦争』への参加は依然として認めないって言ってるでしょ」と言われてしまえば、もう抽象論(一般的なルール)の水準で反論することはできないのであって、ゴネても無意味である。あとは具体的な規則づくりや個別の判断で文句を言うしかない。


 なお、朝日新聞の記事(これとかこれ)では「集団安全保障措置への参加」も認められることになったと書いてあるが、その根拠はよく分からない。もしできるのだとすれば、集団的自衛権よりもさらに進んで、日本の防衛に直接関係なくても国際秩序を維持するためにということで、外国で武力行使ができるようになる。
 ただ、閣議決定の文面からすると、日本の自衛に直接関係がないようなケースであれば参加はできない気がするんだけど、できるわけ?
 まぁ仮にできるとして、集団安全保障措置についても抽象論としてはやはり、「意義があるなら参加すべき」としか言いようがない。武力をもって貢献すること一般を禁止したほうがいいかというと、そうではないだろう。


 ここで言っているのは、「実践上、武力行使できたほうが良いか、できないほうが良いか」の話であって、憲法上許されるかどうかとは別の話である。
 要は、合憲か違憲かという議論をとりあえず措いておいて、外国の戦争にまきこまれることの是非そのものについて考えるなら、一般論としては「無意味な戦争には巻き込まれないように注意すべき」としか言いようがなく、しかも今回の閣議決定でも、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」にしか武力行使はできないことになっているので、そこで議論は終了してしまうのである。
 だから、「外国の戦争に巻き込まれるようになるからダメ」というのは、反対論としてはあまり成り立たないと思う。

解釈変更の手続きは強引だが

 さて「立憲主義の否定だ〜」と騒いでいる人たちが何をしたいのか、イマイチよくわからないが、たしかに手続きはかなり強引である。とくに内閣法制局長官人事の件がヤバくて、外部から賛成派を連れてきて議論を避けるというやり方は、後々踏襲されると大変なことになりそうである。


 ところで解釈変更って、何がどう変わったのか。今回の閣議決定の全文と、それについてのQ&Aは↓にある。


 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法 制の整備について
 「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答


 何がどう変更されたのかがよく分かるのは、以下の箇所だ。

(3)れまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容され るのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。
 我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。
 こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。


 論理としては、憲法解釈を変更するものではなく、「従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導」いたことになっている。これについては「一問一答」でも強調されていて、一応「解釈改憲ではない」というのが政府の立場である。*1


 先ほどの鈴木尊紘氏の論文に引用されているのだが、もともとの政府見解というのは、以下のようなものだ。

「政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場に立っている。(中略)我が憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」(第69回国会参議院決算委員会提出資料 昭和47年10月14 日)

国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、 自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」(第 94 回国会衆議院稲葉誠一議員提出の質問主意書に対 する答弁書[内閣衆質 94 第 32 号] 昭和 56 年 5 月 29 日)


 これの「基本的な論理」の下で、集団的自衛権の行使を“ナシ”から“アリ”に変更したというのはどういうことかというと、おそらく

  • 武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる
  • 憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものである

 というのを「基本的な論理」と考えて、集団的自衛権の行使の是非は「基本」ではないことにしたのだろう。つまり、「急迫、不正の侵害に対処する場合」「必要最小限度」の指す範囲が時代の変化とともに変わってきて、昔は集団的自衛権の行使は範囲外だったけど、今は範囲内になったと考えていいだろうということだ。


 これを「解釈改憲ではない」と言われても、無理矢理な感はある。いわば「解釈の解釈を変更しただけだ」ということなのだが、それって解釈変わってるよねと。「『解釈の解釈の変更』は、『解釈の変更』には当たらない」といわれて通じる人がいるのだろうか?


 ただ、じゃぁ「解釈の変更」が許されないのかというと、そういうわけでもないだろう。そもそも上記の鈴木論文のとおり、政府の憲法解釈は過去にも少し変わっているのだ。
 本来は違憲/合憲の判断を下せるのは裁判所なのだが、日本はアメリカと同様に「付随的違憲審査制」をとっているので、具体的な訴訟が起きない限り憲法判断が示されることはない。だからこれまでの歴史の中で、集団的自衛権については政府が解釈するしかない状況が続いていたわけで、しかもその解釈には変遷がある。
 反対派は、「解釈の変更は立憲主義に反する」というが、そもそも集団的自衛権の行使を禁じてきたのも過去の政府の解釈に過ぎない。反対派の人たちが明確に禁じたいと言うのであれば、そういう方向で憲法を改正するか、裁判所の判断が出るタイミングを待つしかない。
 ただ、単なる解釈とはいっても70年代以降は概ね変わっていないので、その積み重ねを尊重する態度は必要だろう。どの程度尊重すれば十分なのかは難しいが。


 また、「立憲主義」とやらに基づき、集団的自衛権の行使を認めるためには絶対に憲法改正が必要なのかというと、そうでもないのではないか。後述するように、憲法9条1項は「侵略はダメ」という当たり前のことを定めていて、ここから「武力行使は自衛のために必要最小限度の範囲に留めるべし」という原則が導かれ、集団的自衛権の行使がこの原則の範囲内に収まるのかどうかが問題となり、歴代内閣は「収まらない」と解釈してきたわけである。(「集団安保」については後述する)
 しかし理屈としては、「集団的自衛措置の中には、この原則の範囲内に収まるものも収まらないものもある」としか言いようがないのではないだろうか。であるならば、どんな場合であっても集団的自衛権の行使はとにかく認められないとしてきた過去の解釈が、多少先走った感があるのであって、「もっと細かく考えてみたら、認められるものもありました」となっても暴挙とまでは言えないと思う。


 一番の問題は、解釈を変更するというやり方が「立憲主義を否定する暴挙」だという点にあるのではない。どんな憲法・法律だって、「解釈」を経て現実に適用されるというのはごく普通のことである。それより、今回の決定はそもそも一内閣の解釈にすぎないもので、今後政権が変わって別の解釈が示されることだってあり得るし、裁判所が別の判断を示したらそっちが優先される、あやふやなものだという点がヤバいのだ。
 国論が概ね統一されていて、あまり反対論が巻き起こらないような環境が整備されているのであれば、憲法改正せずに「解釈」の変更を行ってもべつに良いと思われる。もともと集団的自衛権の行使を禁止しているのも政府の「解釈」なんだから。しかし「禁止だ」という解釈に40年の歴史があり、しかもこれだけ反対論が多いと、「あとでひっくり返る」恐れはけっこうある。閣議決定による解釈なんて、その程度の根拠しかないのだ。
 だから、解釈変更の閣議決定をしたことが暴挙だというのではなく、後でどうなるか分からないものに基づいて法整備その他を具体的に進めようとしていることが暴挙だと言うべきなのだろう。安全保障に関わる措置は、コロコロ方針が変わるとヤバいのだから、もっと確実な根拠や環境を得てから進めて欲しい*2

そもそも憲法9条って

 ところでそもそも憲法9条は何を禁じているのだろうか。


 前内閣法制局長官に聞く—集団的自衛権の行使はなぜ許されないのか


 ↑ここにも書かれてあるように、憲法9条が定めている戦争放棄というのは、「あらゆる戦争をしません」という意味ではなく、「侵略戦争をしません」という意味だ。
 少なくとも第1項の「国際紛争を解決する手段としての武力の行使」*3というのは、パリ不戦条約などに照らしても*4、これは侵略戦争を意味する表現であると解釈されていて、自衛戦争をしませんという意味ではない。

第1項の武力の放棄ですが、実は1928年のパリ条約、いわゆる不戦条約にも、戦争に限ってですが、似たような表現で書かれていて、その考え方を引き継いで国連憲章も第2条の第3項、第4項で武力行使を禁止しております。要するに、いまの国際法では武力の行使は個別的または集団的自衛権の行使として行なうもの、そらから湾岸戦争のような国連決議に基づいて行なう制裁戦争―集団安全保障措置と呼んでいますが―そういうもの以外は一切違法なものとして禁止されているわけです。したがって、日本国憲法も仮に9条1項だけであれば、国連憲章、あるいは世界の各国と同じように、いわゆる侵略戦争を中心とした違法な戦争を禁止している、そのことを入念的に規定したのだと読めないわけではない。


 ところが問題は、第2項が、「前項の目的を達するため」に「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」となっているという点だ。論理的には、「侵略戦争はしません」「そのために武力を放棄します」ということなり、「あれっ、自衛は……?」という疑問(グレーゾーン)が発生し得る、変な規定なのである。*5
 でもとにかくこの文言だと、結論としては「放棄します」と言ってる以上、放棄してないとおかしいはずである。
 上記のPDFでも、

ほとんどの憲法学者は、9条2項の戦力の不保持の規定に照らすと、現在の自衛隊が戦力に当たらないというのはおかしい、自衛隊違憲だという立場だろうと思います。政府の憲法解釈に、もしわかりにくい点があるとすれば、自衛隊は合憲であるというところから出発しているからでしょう。
(中略)
自衛権があっても、自衛のための措置を講じることができなければ、意味がないわけですから、自衛のために―国民の生命、財産を守るためにと言ったほうがいいのかもしれないですけれども―、必要最小限度の実力組織を有し、武力攻撃を受けた時にそれを排除するための必要最小限度の実力の行使ができる、この点が政府の憲法解釈がもっとも、大方の憲法学者と異なるところだろうと思います。


 と語られていて、つまり「憲法の文面をふつうに読んだ場合」(憲法学者)と、「実践上どう考えても必要なことができるように解釈を工夫して読んだ場合」(政府)との間にはズレがあるということだ。この第2項の問題の大きさからすれば、第1項に照らして集団的自衛権の行使が認められるかどうかというのは派生的なレベルの問題であって、些末な議論だという気もしてくる。


 昔、大学の授業で、「前項の目的を達するため」という文言がなぜ挿入されたのかについて、その経緯と意図を調べた研究が紹介されていたが、内容は詳しく覚えてない。いわゆる「芦田修正」というやつで、ネット上の解説(リンク)によると、この挿入によって「自衛のためにであれば戦力は持てる」という意味に変えたかったらしいのだが、どう読んだって日本語の文言としてはそうはならない。「前項の目的に反するような」とかなら分かるのだが。*6
 まぁ日本国憲法なんて、戦後のどさくさの中でアメリカ人が勢いで作って、日本人が勢いで訳した文書なのだから、「あまり内容は詰まってない」と理解して差し支えない。憲法前文が典型的だが、趣旨以前にそもそも日本語の文章として変だし。いわば「たたき台」(あるいは占領下で一時的に用いる「間に合わせ」の文書)みたいなレベルのものを、70年近く使い続けてるわけである。


 そこでじゃぁ、現実に合っていない文章に現実を合わせるのか、現実に合うように文章を書き換えるのかが問題になるのだが、常識的に考えて現実のほうが大事だし、占領下で米軍の指導によって制定された文章にこだわるという選択肢はないだろう。
 もちろん、その文章に従って半世紀以上にわたって国政を運営してきたという、現実の積み重ねが一応あるのだから、全てをチャラにする必要はない。というかチャラにするのもおかしい。
 ただ9条2項については、過去半世紀にわたって堂々と破られたままであり、常識的に考えてこんなもの破らないと生きていけないのだし、国民もべつに武力を完全放棄しようとは思ってない(9条2項を守る気がない)のだから、「憲法が既に死文と化している」のだと理解して文言のほうを変えることにしても、暴挙とはいえないだろう。べつに9条第2項を取っ払っても、

  • 侵略戦争はしてはいけない
  • 自衛のための武力を保持している


 という現状に何も変更はない。
 ただ、いまの安倍政権は大衆民主主義のなれの果てみたいな代物なので、べつに安倍政権憲法改正をがんばってほしいとは思わないが。


 ところで、日本国が武力行使をするのは「自衛のため」と「侵略のため」の2種類しかないかというと、そのどちらとも言いがたい国連の集団安全保障措置という問題があるのでややこしい。つまり、世界のどこかに侵略的な国が現れた時に、国連軍とかを組織して、「みんなで叩き潰しに行くから日本もついてこい」と言われた場合だ。これが、国際秩序の維持には必要な行為であったとしても、そして長期的には日本の国益になるのだとしても、たとえばものすごい遠い地域の出来事で、日本の防衛という観点から見て「急迫・不正の侵害」とは言えないような場合に、そこに参加して武力行使ができるのかという問題である。


 憲法上、「そんなことできるわけないだろ」と言う人が多いと思うのだが、安保法制懇の報告書(リンク)では、

軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加については、上記I.で述べたとおり、これまでの政府の憲法解釈では、正規の国連軍については研究中としながらも、いわゆる国連多国籍軍の場合は、武力の行使につながる可能性のある行為として、憲法第 9 条違反のおそれがあるとされてきた。しかしながら、上記 II.1.(1)で述べたとおり、憲法第 9 条が国連の集団安全保障措置への我が国の参加までも禁じていると解釈することは適当ではなく、国連の集団安全保障措置は、我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力の行使に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきである。


 とされており、現行憲法でも武力行使OKという立場になっている。まぁたしかに、集団安保措置への参加は侵略ではないので、9条1項によって禁じられてないと言われればそんな気もする。ちなみに、2項について上記報告書は芦田修正の「侵略目的の武力は持たない」と理解する立場をとっている。
 しかし「国際紛争」の前に「我が国が当事国である」という限定を勝手につけてもいいのかという疑問はある。これは報告書を読むと、マッカーサー原案から取られているのであるが、憲法の条文からは読み取れないので、屁理屈感はある。


 なお、先ほども触れたように、朝日新聞の記事では今回の解釈変更で集団安保措置への参加もOKになったと書かれているが、ロジックはよく分からない。閣議決定の文面からすれば、日本の防衛上の必要性が薄い場合は、参加できないと思うけど。

そんなに騒ぐことなのか

 以上まとめると、集団的自衛権の行使そのものは、実践上の話としては認められたほうがいいだろう。だってあくまで自衛権なんだし、選択肢は多い方が良い。そもそも今回認められたのも、日本の防衛上どうしても必要な場合の行使だけなので、どうしても必要な場合はそりゃ必要だろうということで議論は終了してしまう。あとは具体的なルール作りとか個別の判断を間違わないように気をつけることだ。


 ただし、「解釈の解釈の変更は、解釈の変更には当たらない」というのは詭弁だから「解釈を変更します」と言うべきだし、内閣法制局長官のすげ替えというのはいかにも強引で、禍根を残しかねない。「戦後レジーム」に間違いが多かったとは言え、過去との連続性を重視して手続きを進めるという態度も大事であるはずだ。
 また、強引であるか否か以前に、高校の授業でもたしか習ったように憲法判断を下せるのは裁判所であって内閣法制局ではないのだから、閣議決定やら内閣法制局見解の変更をしとけばOKみたいなノリがそもそもおかしいとも言える。
 もちろん、日本の場合はいわゆる付随的違憲審査制を取っていて、具体的な訴訟が起きない限り裁判所が判断を下すことはないので、実践上は政府がいろいろ解釈しないといけないのは確かである。また、憲法9条で改正が必要だと思われるのはどちらかといえば第2項の方であり、集団的自衛権の問題はどちらかといえば第1項から導かれる「自衛のために必要な最小限度の措置」に含めていいかどうかという話だから、憲法を改正しなければ行使は容認できないという話になるかというと、そういうわけではない。もともと「行使できない」という判断も「解釈」なのだから。
 ただ、これだけ揉めるのだから、裁判所の判断が出るか、憲法から明示的に読めるようになるまでは、集団的自衛権の行使がOKかどうかはあまりハッキリしていないと考えるべきだ。内閣が替わって別の「解釈」を出すことも可能なわけだし、裁判所が別の解釈を示したらそっちが優先される。そんなあやふやなものに基づいて今後の法整備を進めようとしていることが、問題だといえるだろう。


 ところで私は、冒頭で言ったように、そもそも集団的自衛権ごときでそんなに大騒ぎする必要あんのかって思ってしまった。その理由は大きく分けて、以下の3つ。


 1つ目は憲法上の論点としてもっと重要なものがあるのではということ。
 上述のとおり、集団的自衛権を認めるかどうかというのは憲法9条1項の問題であり、「自衛」の範囲に含まれるかどうかという話に過ぎず、これは戦力の放棄を謳った2項の問題に比べれば大したことではないのではないだろうか。
 また、9条1項の問題としても、(日本の防衛上、喫緊の問題ではないような)集団安全保障措置への参加をどう読むかのほうが難しいと思われる。集団的自衛はあくまで自衛のための措置なので、論理としては正当化が比較的簡単だろうと思うのだ。ただもちろん、今回のようなたかだか閣議決定では後でひっくりかえる可能性もあるから、論理以前に環境整備をまず進めて欲しいけど。


 2つ目は、べつに集団的自衛権が認められていなくても、日本は危険なことをしでかし得るということだ。最も顕著な例がイラク戦争で、あれはアメリカの侵略戦争でありフランスやドイツも反対していたものだが、日本はホイホイ支持を表明して間接支援を行い、アメリカによる国際秩序の破壊行為に荷担したのである。
 こうなってしまう原因の一つとして、日本人が「憲法9条」の問題を(それを支持するにせよしないにせよ)過大評価しているというのがあると私は思っている。何が事が起きるたびに、我々は「憲法9条に照らしてOKか」の議論にばかりエネルギーを使っているのだが、その結果として、海外で起きている紛争について「この戦いは、国際法に照らして、どちらに理があるのか」を考える習慣が身についていないのだ
 今回のように集団的自衛権ごときで大騒ぎしているようでは、また当分「内向き」の文化が続いていくんだろう。べつに集団安保活動に参加できるようにして世界の平和に積極的に貢献すべしとかいうわけではないのだが、外国で事変が起きたときに「もし日本にも助けを求められた場合、憲法9条的にどうなのか」ばかり気にして、侵略と自衛の区別をつけて国際法上の「正義」について考えることができないというのは、相当ヤバい。そのせいで、イラク戦争や今回のウクライナ事変のようなことが起きたときに、判断を大きく誤り得るからだ。


 3つ目は、これも「内向き」の文化に関係する話なのだが、国際情勢がめちゃめちゃ複雑化・不確実化していて、戦後かつてないレベルで「自衛」そのもののが難しい課題となっているときに、集団的自衛権の是非ごときで大騒ぎしてていいのかということである。
 これは中野剛志さんがメルマガで書かれてた問題だ。(リンク)、今の世界の問題はアメリカのパワーが衰退して、世界を仕切れる国がなくなってしまったということだ。アメリカにはもはや、世界のあちこちで戦争を仕掛ける余裕も、日本を守る余裕もなくなっている。一方、中国やロシアは膨張を開始し、中東はまた不安定化している。それなのに、集団的自衛権反対派は「アメリカの戦争にまきこまれる〜」と騒ぎ、賛成派は「これで日米同盟が強化される〜」と喜んでいる。
 まぁ、戦争に巻き込まれる可能性も、日米同盟が強化される可能性も、それはそれであるからべつにいいのだが、騒ぐ前にもっと調べたり考えたり決めたりすべきことが山のようにあるんじゃないのか。我々がもし、憲法9条も何も無い「普通の国」であったとしても、これから自国の安全保障のためにどうしていったら良いかはよく分からないのだ。戦後の世界で「仕切り屋」がいなくなるという事態は初めてなんだから。ふつう、見通しがきかない霧の中でワーワー大騒ぎできる奴というのは、気が狂っているか、もしくは普段から1m先ぐらいしか見ていないかのどっちかだろう。

*1:というかそもそも、「解釈改憲」などという手続きは存在しないけど。

*2:結局その根拠としては、反対論が収まることはなかなかなさそうだから、憲法改正か、裁判所の判断ということになるのだろう。その限りでは「憲法を改正すべし」という主張には妥当性がある。

*3:ちなみに「国際紛争」というのは武力衝突のことを指しているのではなく、「もめごと全般」を指している。つまり、国家間で利害が対立したとき、その解決のためにいきなり武力を持ち出すのは「侵略」であり、それはやめましょうという意味だ。

*4:つまり、日本国憲法だけの独自の用語法なのではなく、定番の言い回しだということ。

*5:まぁ、アメリカに守ってもらうということなのだろうけど。

*6:Twitter経由で、憲法13条の幸福追求権が根拠となって、必要最小限の戦力の保持が認められているという指摘を頂いたが、その話は知っている。しかし憲法13条をどれだけ重視したところで、9条2項は明示的に戦力放棄を謳っているのだから、矛盾が生じているという事態に変わりはないと思う。