The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

「自意識に詰め腹を切らせる」

 ずいぶん前から探していた文献にようやくたどり着くことができたので、将来、だれかがネットで検索して見つけることもあるかもと思い、メモしておきます。


自意識過剰な人々

 先日、ある飲み会で、自意識過剰な人たちについてどう思うかというようなこと話題になったことがあった。学会の研究発表会とかで、無意味に知識をひけらかして発表者を困らせようとする奴たまにいるよね、みたいな文脈だったと思う。
 自意識過剰というのは、一応ある程度イメージは共有されていると思うのだが、「自慢話が好き」とか「自己顕示欲が強い」とか「承認欲求が強い」とかいうのとは(関係はあるけど)微妙に異なっていると思う。心理学で、自意識の強さを計測する尺度が開発されていてその日本語版もあるようなのだが、それを論じた論文(その1その2)でも言われているように、要するに自意識というのは単に「自分に対して強い注意(関心)が向いている状態」のことだとしておいたほうが実感に近いと思う。
 たとえば、自意識というのは自慢話のような積極的な形で顕れる場合もある一方で、悩みを打ち明けたりFacebookで「最近疲れてるの」アピールをして“かまってちゃん”に陥る場合のように、否定的(ネガティブ)な感じで「自分に対する注意」が前面に出てくる場合もある。「過剰」というのは、通常他人が期待する以上に、
 「自分に対する注意>>>>>他人に対する注意」
 という感じになっているということだと思えば良いだろう。


 会話という場を考えると、意識の中心を(1)自分に置いてる場合(自意識モード)と、(2)相手に置いてる場合(思いやりモード)と、(3)トピックに置いてる場合(客観モード)があると思う。これらの使い分けが適切に行えず、つねに(1)に持ち込んでしまう人が「自意識過剰」ということである。
 なお、自分の話をしているようであっても、じつは「自分語り」がしたいというよりは単にそのトピック自体が面白いと思って一生懸命しゃべっているという場合もあって、それは(1)ではなく(3)であるかもしれない。たとえば、昨日めちゃめちゃ面白おかしい体験をして、その体験を人に伝えたいという場合、どうしても「自分」の話になってしまうけど、伝えたいのはその「面白さ」なわけだ。
 「自慢話」だって、聞いていて気持ちの良いものはけっこうある。哲学者の三木清が、

名誉心と虚栄心とほど混同され易いものはない。しかも両者ほど区別の必要なものはない。この二つのものを区別することが人生についての智慧の少なくとも半分であるとさえいうことができるであろう。


(三木清:『人生論ノート』)


 と言っているのだが、至言だと思う。「虚栄心」ではなく「名誉心」に発する場合、自慢話も無邪気で天真爛漫な表現をとっているものだ。この場合、無邪気であるというのは、自慢のネタを自分自身の内面からではなく、外側から客観的な視点で捉えられてるという感じだろう。「自慢」してはいるけど、それがもし他人の話であったならば、その他人を称えていただろうと思わせるような自慢である。天真爛漫というのは自然であるという意味で、人間の「主観」みたいなものがあまり混じっていない様を指している。それも大事だ。
 まぁ要するに、何の話をしていてもいつの間にやら「自分語り」に突入している人、相手が興味を無くしてしまっても構わず「自分」の話をしてしまう人で、かつ自分を客観視できていない人というのが、「自意識過剰」のイメージに近いと思う。ポジティブな語りであれ、ネガティブな語りであれ。
 論語に「人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う。」というのがあるが、他人に自分を知ってもらえてないと心配する前に、自分が他人をよく知らないことを心配しろという意味だ。「自意識過剰なやつはクソ」というのは、2500年前にもすでに、典型的な人生訓の一つだったのである。


自意識に詰め腹を切らせる

 で、私はその飲み会での議論の中で、むかし評論家の西部先生が、酒を飲みながらよく「小林秀雄が、自意識には詰め腹を切らせなければならないと言っていたんだ」と語っていたのを思い出した。それで、「文芸評論家の小林秀雄が、〜〜みたいなことを言ったらしいです。これって要は、自意識というものは、たぶん20代半ばぐらいまでに自覚的に始末をしなければならないということなんでしょうね。『ああ、こんなにも、自分ごときのことばかりいちいち気にかけていては、一人前にはなれない』ということに、どこかで気づいていくのが普通の人間だということ。ごくたまに、30代になっても高校生みたいに『俺は』『俺が』と自意識から逃れられずにいる人も見かけますが。たぶん、小林秀雄がこんなことを書いているのは、小林秀雄みたいな立派な人でも、年をとってから自分の20代の頃とかを振り返ってみれば『俺もあの頃は自意識過剰だったなぁ』と反省せざるをえないと思ったんじゃないですかね」みたいな話をした。
 小林秀雄というのは、大正〜昭和に活躍した超有名な文芸評論家である。


 なんでこのセリフを思い出したかというと、「自意識に詰め腹を切らせる」という表現がすごく気に入っていたからだ。詰め腹を切るというのは、もちろん切腹するという意味である。
 そこには、自意識というのは放って置けば自然に萎えるようにして消えていくようなものなのではなくて、人生のある段階(25歳とか30歳とか)で、いったん自分で自覚的に処理しないとといけないものなのだという含意がある。自意識をもって自意識に始末を付けるということである。
 まぁ、そうは言っても自意識というのは結局消えて無くなるようなものでもなく、油断すると絶えず腹の底からせり出してくるものだ。だとすると、自意識に詰め腹を切らせるというのは、この自意識を抑える自己コントロールの術を身につけるということだと言っておいたほうがいいかも知れない。自意識の有無が問題なのではなく、自意識を客観的に捉えることができているかどうかとか、それをむき出しにすることの恥ずかしさに気づいているかどうかといったことが重要なんだろう。


「自意識に詰め腹を切らせる」の出典

 この「自意識に詰め腹を切らせる」というセリフを、ことあるごとに思い出してしまうので出典を確認したいと前から思っていた。ところが、小林秀雄のエッセイ集(著作集とか『考えるヒント』シリーズとか)の中でタイトルに「自分」とか「自己」といった言葉が付いているものをチェックしたりしても、ぜんぜん見つからないのだ。だから、出典も確認せずに「小林秀雄がこう言ってたらしい」といつも孫引きで言及していたのである。
 で、最近また思い立って「ひょっとして小林秀雄は関係なかったっけ?」と思ってググってみると、

西部「…とりわけ日本映画は何か自意識というか「俺の気分は憂鬱だ」とか、「俺は淋しい」「やるせない」「目的がみつからない」とか、その手の自意識の心理描写が多い。有名なセリフで小林秀雄が戦前、「自意識なんかには詰め腹を切らせよ」というふうにいったのを、そういう映画を観るたび思い出していた。文筆家であれ、映像作家であれ、お前さん方の自意識の垂れ流しはもういいよと。さっさと詰め腹を切って死んでくれという感じがあった。しかし、今度の映画だけは、そういう監督や製作者の自意識の垂れ流しは微塵もない。成功の第一原因は連合赤軍という問題についてあれこれ自意識に基づいて解釈をし始めるときりがないというか、作品にならないというか、そういうふうに見定めた、さすが年季の入った親分の仕事だなと、映画論としていえばそういうことになる」


http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-df25.html


 という記事が見つかった。つまり西部先生が、小林秀雄のセリフとして引用していたことは間違いないようだ。昔の「朝まで生テレビ」でも、同じことを言っていたような記憶があるし。
 ちなみに関係ないけど、↑の記事に出てくる若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』という映画は私も傑作だと思っていて、当時ブログにレビューを書いておいた(過去のエントリ:若松孝二『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』)。


 さて、ところが、もう少しググってみると、

 福田恒存はかつて、小林秀雄を評する中で、「大自意識家というものは自意識に詰め腹を切らせる人間」であると言ったことがあるが、そういった問題がここには含まれている。

http://saigou.at.webry.info/200902/article_4.html

 私が氏のブログを読む限りにおいて認められる豊かな才能とは、要するに豊かな見識ということであるが、そこには、福田恒存が小林秀雄の仕事を、「大自意識家といふものは自意識に詰め腹を切らせる人間のことだ」ということの証明であった、と評したときの、自意識に詰め腹を切らせる心の働きが感じられるのである。

http://yamatogokoro.iza.ne.jp/blog/entry/2108321/


 という記述がみつかった。


 なんと!


 どうもこれは、小林秀雄本人のセリフではなくて、福田恆存のセリフだったのかも知れない。福田恆存も著名な文芸評論家だが、小林よりも少し後の時代の人で、かなり政治的な評論も激しく行っていた人である*1


 というわけで、福田恆存の全集・評論集を当たってみようかと思って図書館に行ってみた。そんなピンポイントの記述を全集の中から見け出せるかどうか自信はなかったんだけど……探してみたらものの5分で見つかってしまった(笑)
 福田恆存の「作家論」がまとめられた巻があって、目次をみたら「小林秀雄」という章があって(小林秀雄は「作家」ではないような気がするがまぁどうでもいい)、パラパラめくってたらあっさり見つかったのである。


福田恆存の小林秀雄論

 福田恆存の「小林秀雄」という評伝は、30ページぐらいの短いものだ。その中に、

小林秀雄が全力をあげて証明しようとしたこと——「大自意識家」といふものは自意識に詰腹を切らせる人間のことだ——このこと以外のなにものでもない。

(福田恆存:「小林秀雄」, 『福田恆存評論集 第十四巻』, 麗澤大学出版会, 2010.)※漢字だけは新字体に直した。以下同様。

たしかに大自意識家といふものは自意識に詰腹を切らせる人間のことだ。自意識そのものを絞め殺さずにはゐられぬほど強靱な自意識の持ち主といふ意味にほかならぬ。

(福田恆存:同)


 という記述がたしかに出てくる。
 しかし、はて?と思った。読んでみると、どうも福田恆存が言っているのは、「男たるもの、自意識に詰め腹を切らせなければ一人前にはなれない」というような単純な処世論ではなさそうな気がする。


 この小林秀雄論は内容が難しくて分からないところも多いのだが*2、大ざっぱに言えば、小林秀雄は自意識のくだらなさに気づいてしまって、そういう人間的なものを超越した過去の芸術の理想主義に耽溺していった……というようなことが書かれてあった。


 近代の文学や思想は、昔の芸術家や宗教家たちが作り上げたような完璧な理想の世界には背を向けて、むしろ現実の生活のなかで様々なドラマを繰り広げている平凡な「自意識」や「自我」という主題を描くべき対象として発見し、このドラマにスポットを当てることで新たな表現の世界を切り開いてきたと言える(らしい*3)。しかしこの種の作品にしばらく向き合って、自分の自意識とも向き合ってみたところ、あまりにも聡明すぎた小林秀雄は、自意識なんてものがいかに脆く、平凡で、取るにたらぬものであるかに気づいてしまった。自意識というものを掘り下げていっても、さして重要なことは分からないと判断して近代主義に背を向け、むしろ過去の理想主義的な天才的芸術家たちに関心を集中させるようになったというのが福田の見方である。


 そういう意味では、「自意識を以て自意識を制する」のが小林の文学者としての生涯だったと理解するのは正しいのだが、それは冒頭で述べたような、人生訓的な自意識論とはちょっとレベルの違う話だ。
 ちなみに福田は、小林が「自意識」というものの脆さを見破って、近代主義的な自意識の演じるドラマが取るにたらぬものであると切り捨てたこと自体は正しかったと言っている。しかし、現実の生活に背を向けて、そのくだらない自意識の葛藤の世界から逃げていったのは、果たして正しかったのだろうかと疑問を投げかけてもいる。
 福田はどちらかといえば、自意識などというものはくだらないのだということを理解したうえで、それでも自意識が様々なドラマを演じている目の前の現実の生活と格闘し続けるのでなければ、大事なことは分からないと考えていたようである。


小林自身の文章

 ちなみに、小林秀雄自身が「自己」について書いた文章を見てみると、たとえば

 自意識の過剰という事を言うが、自意識というものが、そもそも余計な勿体ぶった一種の気分なのである。他の色々な気分と同様、可愛がればつけ上るし、ほっとけば勝手にのさばるのだ。自意識の過剰に苦しむという事は、憂鬱な気分に悩むという事と全く同じ様子をしている。何かが頭のなかでのさばるのを、その儘放って置く苦痛なのだ。太陽や水や友人や、要するに手ごたえのある抵抗物に出会えない苦痛なのである。ただ苦痛のそういう明らかな原因には、気が付くか付かないか二つに一つだ。だんだん気が付くという様なことは決してない。夢がだんだん覚めるという事はない。

(小林秀雄:自己について, 小林秀雄全作品13 歴史と文学, 新潮社, 2003.)


 というようなことが書いてある。
 「気が付くか付かないか二つに一つだ」という言い方の中には、やはり自意識というのは何らかの形で「始末」してしまわなければならないという含意を読み取ることができる。
 また、同じ文章のなかで、

文学に志す人は、誰でも頭のなかに竜を一匹ずつ持って始めるものですが、文学者としての覚悟が定まるとは、この竜を完全に殺して了ったという自覚に他なるまいと考えます。

(小林秀雄:同)


 とも言っている。「文学に志す人」と限定してはいるが、これはまさに一種の「詰め腹」論だ。何事かを成し遂げようと思っている人が最初に頭の中に飼っている竜(クリエイターとしての自意識)というのは、それを殺してしまったときに始めて一人前になれるようなものなのである。


 そういえばヘーゲルが、

偉大な芸術家たちが作品を完成すると、世人は、『このとおりにちがいない』と言うことができる。すなわち、芸術家一個の特殊性はまったく消え去っており、どんなわざとらしい手法もそこには見えないということである。……芸術家がへたであればあるほど、それだけますます作品に彼自身、つまり彼一個の特殊性と恣意がみられるのである。

(ヘーゲル『法哲学』)


 と言っていたが、これは、芸術を「自己表現」の道具とするのは真の芸術ではなく、真の芸術作品の前では作家の「自意識」など消滅しているのだという話だろう。


 小林秀雄は「文学と自分」というエッセイも書いていて、これの中で、

事変*4の始まった当時、戦争に処する文学者の覚悟如何というハガキ回答を雑誌社から求められた事があった。馬鹿々々しかったから答えなかったが、そんな質問が雑誌から出て、文学者が頭をひねり、いろいろ尤もらしい考えを述べたという事は、いかにも不見識なていたらくて、平素、文学というものを突き詰めて考え、覚悟を決めていないから、いざとなるとあわてるのだ、とその時痛感したのを今でもよく覚えております。
(略)
 文学者は、戦にどう処するかと言うが、一体戦うのは誰なのか、自分が戦うのではないか。文学者という様な抽象人が誰と戦うわけではありますまい。
(略)
戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。銃を取る時が来たらさっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。

(小林秀雄:文学と自分, 小林秀雄全作品13 歴史と文学, 新潮社, 2003.)


 という話をしている。この話も、西部先生から昔聞いたことがあるのだが。
 これもある意味一種の「自意識」論になっていて、要は「俺は文学者だ!みたいな恥ずかしい自意識は捨ててしまえ。戦争が始まったら単に一国民として戦いに行くのであって、文学者としてもクソもあるかボケw」と、自意識過剰な文学者たちをからかっているわけである。
 この文章なんかをみると、福田が批判しているほど、小林は厭世家(現実の社会から逃げた)というわけでもないように思うのだが。


 福田が「小林秀雄が全力をあげて証明しようとしたこと——「大自意識家」といふものは自意識に詰腹を切らせる人間のことだ——このこと以外のなにものでもない」と言ったのは、自意識の限界を見破ってしまった小林は、文学者としての態度において、近代的自我に拘泥するような表現の潮流を拒絶したのだというぐらいの意味だ。しかし、小林が自意識について書いている上記のような文章を読むと、趣旨としては彼が「自意識には自分で始末を付けなければ一人前になれない」ぐらいに考えていたと理解しても、さほど間違いではないような気もする。

*1:西部先生は福田恆存を「戦後最高の知識人」と評している。そしてその福田恆存は、小林秀雄を一部批判してもいるけど、じつは崇拝している。

*2:というかこの評伝は、小林秀雄の文芸評論を材料にして小林秀雄の人物像を論じているもので、私は小林秀雄の文学方面の仕事をキチンと読んでないから、よく分からないところも多い。

*3:文学史はよく知らないけど、なんかそんな感じだったとおもう。

*4:日中戦争