The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

『必読書150』について

 これだけは絶対読んどけって本
 ↑たまにこういうスレッドが盛り上がるわけですが、必読書リストとしては、いまだに学生時代にみた『必読書150』という本が個人的には最強だと思う。選者の一覧をみれば分かる通り、昔懐かしい「ニューアカ」な香りがぷんぷんする代物で、バイアスももちろんあるんだけど。
 『東大教師が新入生にすすめる100冊』も古典を中心に選定したものだけど、あっちはよく読まれた実用書とか、古典と言うよりは戦後日本のベストセラー・ロングセラー系がけっこう混じっているので、『必読書150』の方がオーソドックスだといえる。『ブックガイド60』(現代思想の増刊号)というものもあり、リストだけみたけど、まあ60冊じゃ少ない気がするし、哲学・思想系に限られている。
 ま、これら3冊を合体させておけばちょうどいいってところかもしれない。


必読書150

必読書150

  • 作者: 柄谷行人,岡崎乾二郎,島田雅彦,渡部直己,浅田彰,奥泉光,スガ秀実
  • 出版社/メーカー: 太田出版
  • 発売日: 2002/04
  • メディア: 単行本
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東大教師が新入生にすすめる本 (文春新書)

東大教師が新入生にすすめる本 (文春新書)


 いま検索してたら、『必読書150』は今年復刊されたらしく、下記のブログで、同書冒頭における選者たちの議論が詳しく紹介されていた。

一条真也のハートフル・ブログ
http://d.hatena.ne.jp/shins2m/20110304/1299164513


「われわれは今、教養主義を復活させようとしているのではない。現実に立ち向かうために『教養』がいるのだ。カントもマルクスもフロイトも読んでいないで、何ができるというのか。わかりきった話である。われわれはサルにもわかる本を出すことはしない。単に、このリストにある程度の本を読んでいないような者はサルである、というだけである」(柄谷行人)


「僕は80年代の半ばに、どういう本を読めばいいかと聞かれて、岩波文庫を読めといったことがある。その発言は、どこかで活字になっていると思う。ただし、岩波文庫だからいいといったのではない。なぜか、推薦したい本がほとんど岩波文庫にあったということです。たとえば、浅田さんにしても、マルクス、フロイト、ソシュールのような、このリストに入っているものを中心にやってきているはずです。そもそも、現代思想といっても、デリダ、ドゥルーズ、フーコーらは、カント、マルクス、フロイトなどの読み直しをやっているのです。そのこともわからないで現代思想などと騒いでいた連中は、したがって、今や痕跡も残っていない。僕が勧めたのは岩波文庫ですが、もちろん、それは岩波知識人のようなものとは関係ありません。昔も今も、ああいう連中は、知的かつ倫理的にカスだと思っている」(柄谷行人)


 おおおお、確かにそんなこと書いてあったわw
 こんな本を出せばほうぼうから、「その選定センスはおかしい」「いまどき教養主義かよ」というツッコミが入るのは当たり前の話で、ぐぐったらすぐ↓のような2007年のブログ記事がみつかった。

必読書150の時代錯誤
http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/150_ad82.html


帯に「これを読まなければサルである!」とある。この本を本屋で見て、バカな連中がいるものだと思っていたらWeb上では話題になっていると分かった。必読と上げられているのは、プラトン、アリストテレスからマルクス、他に日本の思想家など人文科学50冊、海外文学と日本文学が50冊、加えて参考テクスト70冊が上げられている。(後ろにリストをつけておいた)
(略)
集めたものの大半は、岩波文庫に入っている。ほとんど古典となっているもので、読まないよりは読んだほうがいいに決まっているが、この連中の選び方の安易な事が露骨にでている。つまり、岩波教養主義といえばいいのか、「世界の名著」主義といえばいいのか、頭の構造は岩波茂雄あるいは文明開化の時代とたいした違いはないように思える
(略)
今ごろこんなことをやるとは、現在がどのような時代であるかの認識が、全くない事の証左である。
(略)
この連中は近畿大学の教師らしいが、学生相手に「これを読まなければサルだ」などと脅している。こういう浮世離れした連中に「サル」だと言われても、あまり気にしないほうがいいと学生諸君にはいっておきたい。


 この種の批判については、『必読書150』の選者もアホではないので織り込み済みである。私はこの選者の人たちのファンでは全然ないのだが、『必読書150』の選定はこのメンツにしてはかなりフェアというかオーソドックスだと思う。「選び方の安易な事が露骨にでている」というけど、古典の必読リストなんて“安易”じゃないと逆に意味ないでしょ。これから最低限の教養を身に着けたいと思っている若者にとって必要なのは、「教養のある人なら誰もが思いつくような書物のリスト」なのであり、誰もが思いつくというのはある種の「安易さ」にほかならない。
 選者のひねりを利かせれば「安易」ではなくなるだろうけど、それは要するに個人的なバイアスなわけで、リストが役に立つ範囲を限定してしまうのであり、「必読」からは遠ざかることになる。


 ちなみに「これを読まなければサルである!」というのは本書の単なる宣伝文句だ。本書の冒頭の座談会で、選者の一人も全部は読んでいないと告白している。浅田彰や柄谷行人あたりは全部読んでそうなイメージがあるけど……。なので「サル」発言を非難するのもあまり意味はない。


 というか、必読書リストを作るのが不毛だとすれば、他人がつくった必読書リストに文句を言うのも不毛なはずである。上のブログ記事「必読書150の時代錯誤」も、木田元を読めとかドゥルーズ&ガタリを外せとか具体的に言っているということは、本当は「これを読まなければサル」と言いたくなるような本が自分にもあるということだろう。それでいいんじゃないだろうか。この種のリストを発表すれば「あれが抜けてる」「これは要らん」というツッコミは必ずあるわけだけど、そういう議論はけっこう楽しいのだw
 「常識」に関する感覚は人によってズレはあるので、人が常識と呼ぶものの一覧に対して感情的に非難するのは野暮というものだ。リストを作った連中を馬鹿にするのではなく、ふつうに「よりよい必読書リスト」を自分なりに考えてみればいいだけの話である。


 基本的に、人に本を薦めるというのはかなり下品なことである。同様に、映画とかマンガを薦めるのも下品だ。相手はそんなもの読む時間があるかどうかも分からないし、読んで面白くなかったらどう責任をとるつもりなのかって話しだ。しかも、本というのは読んでないよりは読んでるほうが偉いということになっているので、勧められる側は正直めんどくせーなとか興味ねーよとか思っても、断りにくい。これはタチが悪い。相手が断りにくいものを勧めるのだからそれは下品というほかなく、どうしても勧めたいというなら、勧める側にかなりの節度が求められるわけである。
 思うに「本の推薦」というのは、以下のような限られた場合にしか許されないものではないだろうか。


 (1)上からの命令:先生が学生に、あるいは上司が部下に「読め」と命令するように、上下関係に基づいて強制的に読ませる場合。これはその推薦のセンスがしょぼかったとしても、一応正当性がある。先生や上司はひとまず偉いことになっているから許されるのだ。
 (2)感動体験の語りに徹する:自分が読んで感銘を受けたという体験をひたすら一方的に語る場合。推薦というよりは紹介だ。この時、「ぜったい読んだ方がいいよ!」的な押し付けがましいセリフはなるべく言ってはいけない。それは大抵の場合、ありがた迷惑というか、単にウザいだけだ。「私の話に共感できたら読んでくれればいい」ぐらいのスタンスを守ることが重要である。
 (3)リクエストに応える:何かお勧めの本を挙げてくれと言われて薦める場合。頼まれたのだから当然すすめて良いはずだ。ただしこの場合でも、相手の教養レベルをきちんと汲んだチョイスを行う必要がある。難しすぎても簡単すぎてもダメである。
 (4)不特定多数向けの紹介:たとえば社内報かなんかの自己紹介欄に「好きな本」を書く場合とか、ブログやSNS等に書く場合である。これは特定の他人に対する押し付けにはならないわけで、その推薦をどう受け止めるかは読み手の勝手に任されているのだからOKだろう。著名人が雑誌の書評欄で書籍を推薦するのも、同じである。
 (5)常識に訴える:そして最後に、「常識として読んどいた方が良い」という、一般的な基準に訴える場合である。「古典」のススメもここに属するし、「教科書を読め」というのも似たようなもんだろう。自分がどう思うとかじゃなくて、初学者がみんな読んでる教科書とか、論文とかでよく参照されるような著名な文献については、「読んどかないと話にならないでしょ」的な推薦の仕方が可能である。「それって常識か?」とセンスが疑われる場合はあるけど、基本的に推薦者自身の責任を宙に浮かせることができるので、あまり非難することができない。


 で、最初の話に戻ると、『必読書150』には選者なりのバイアスもあって、押し付けがましいところもないではない。上のブログ記事「必読書150の時代錯誤」も指摘しているが、『アンチ・オイディプス』を読んで“役に立った感”を感じられる人なんていまどき稀だろう。
 しかし全体としては上記(5)の「常識に訴える」という条件をまあまあ満たしていると言っていいんじゃないだろうか。少なくとも、満たそうと努力しているような気はする。もちろん、何を「常識」と捉えるかについてはまた議論が分かれるわけだけど、選者たちが自分の好みよりも「一般的によく取り上げられる」「後々役に立つ場合が多い」という基準を重視しようとしている構えは伺えるので、べつに多少気に入らないものが混じっているからと言ってリストそのものを非難する必要はない。


 ちなみに私は、『必読書150』のリストの中で、作品そのものを読んだものを数えると62作品。著者名で数えると、著作を読んだことのある著者は74人だ(たぶん)。つまり半分も読んでないっすw。もっぱらこのリストに沿って読書に励むことにすれば、通勤タイム読書でも1年もかからずコンプリートできると思うけど、何だかんだで他に読まねばならんものもあるし、そもそも全部読む気はない。でも、いつか読んどくべきだろう的なものが多いのは確かだ。


 なお、上記「必読書150の時代錯誤」はこういうことも言っている。

つまりこれは古典的なエリート養成の方法論に何の疑いも持たず従っただけの事である。昔の旧制高等学校の生徒なら喜んで丸暗記でもしただろう。後で自慢出来るからだ。しかし、自慢の種を教える事ならサルでもできる。


 いやなんというか、オーソドックスな古典をとにかく読めという意見には、たぶん逆らわん方がいいって。私にはべつに旧制高校的な教養なんて全くないし、エリートでもなんでもないけど、「古典」的な本を読んで損をしたと思ったことはあまりない。
 上の「ハートフル・ブログ」には、『必読書150』中の、夏目漱石の『吾輩は猫である』についての解説が引用されてるのだが、

「日本の近代小説家で、古典としての地位を獲得して揺るぎなさそうなのは、まず漱石だけだろう。だから好き嫌いをいっている場合ではない。だって古典だもの。納税の義務は怠っても『猫』だけは読もう。もちろん他の作品も」


 この感覚でべつに良いと思う。たぶん人はある程度までミーハーであっていいのだ。
 就職してからは古典というよりも俗っぽい本を読むことが多くなってしまったけど、読んだことを自慢できるような「古典」を読んでおくことは大事だと今でも思うし、他人が私の読んでいない難しい古典を読んでいたり、それがさらに原書だったりすると、ふつうに「すごいなぁ」「うらやましいなぁ」と思うものだ。
 まぁ、サラリーマンが「古典」なんかに触れてしまうと、学生時代が懐かしくなってしまって現実逃避が始まり、悪趣味なノスタルジーに浸るばかりで「実用」を必要以上に犠牲にしてしまう危険はある。それはダサすぎるので十分注意しないといけない。
 でも、それでもなお・・・これまでに読んだ本を振り返ってみて、ある意味自分自身の血肉と化し、繰り返し言及してしまうような書物というものは何冊かあって、それってだいたい「古典」に属するものなのだ。個人的にはプラトンとかウィトゲンシュタインとか、福沢諭吉とか樋口一葉とか、チェスタートンとかニーチェとか。
 それに、古典というのは「ベストセラー」であり、かつ下手したら数百年単位の「ロングセラー」なわけで、とにかくやたら言及される本なので、何だかんだで何か勉強する上で役に立つことは否定できない。ビジネスマンがアウグスティヌスを読むのは不毛かもしれんけど、ケインズとかシュンペーターぐらいなら、読んでおいて全く役に立たないということもないだろうとは言えると思う。ドストエフスキーとかトルストイならおっさん世代で好きな人も意外に多いので、話のネタにもなるだろう。


 さて、そういえば今はなき『論座』が、2007年3月号で「『人文書』の復興を!」という特集をやっていて、立ち読みだけしたんだけど、当時の自分のメモが残っている(↓)。

柄谷行人がインタビューで、「人文書を読みたいという人がいたら、ひとつだけ忠告したいことがあります。それは、古典的な文献を原典(翻訳でもよい)で読め、ということです。」(←立ち読みしながらケータイに打ち込んだので引用正確)と言っている。柄谷は『源氏物語』を与謝野晶子の現代語訳で読んだらしい。「文芸評論家が原文で読まないとは何ごとか!」と批判されることもあるらしいが、とにかく翻訳であっても『源氏物語』の全体を頭に入れておくとものすごく役に立つんだ、と。


「人文書の要約や入門書の類いは読んではいけない。古典を原典で読んでいると、理解できてはいなくても案外内容は忘れないものだし、生きている間に後から理解が深まったりする。入門書や要約で読んでしまうと、そのような成長はあり得ないし、内容もすぐに忘れてしまう」(←記憶で書いてるので引用は不正確)


 この後段の話はけっこう大事だ。古典的な本ってほんとに、よく分からんまま読んで「なんか難しかったなぁ」で終わったとしても、後々「はっ」とその意味が分かる時があって、それから読み直してみると「なるほど」と得心するというパターンがある。もちろん、その理解だって間違ってるかもしれんのが哀しいけども。
 なんというか、分かってなくても記憶には残ってるんだろうな。で、潜在意識のなかで色んな情報とからみあって、そのうち突然理解が顕在化するという感じ。不思議だ。


 なお、みんな読んでるという意味での必読ではなく、個人的に素敵だと思う本がならんでいるのは↓の思想家列伝です。
 取り上げられているのが、バーク、キルケゴール、トックヴィル、ニーチェ、ブルクハルト、ル=ボン、チェスタートン、シュペングラー、ホイジンガ、J・オルテガ、ヤスパース、T・S・エリオット、ウィトゲンシュタイン、ハイエク、オークショット・・・熱すぎる。バークとかトックヴィルとかハイエクは「保守」気取りの人が必ず挙げる思想家だけど、ここにキルケゴールとかニーチェとかウィトゲンシュタインなんかを含めて一つの思想体系を語れるという人は稀有だと思います。


思想の英雄たち―保守の源流をたずねて

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